性善性惡の爭論

 (十三) 善惡の否定

 性善性惡の爭論はもう古臭くなつてしまつた。僕の論旨から云ふと、宇宙は根より水を吸ふ時は草木である、口より食を入れる時は人畜である[#「僕の論旨から云ふと」~「人畜である」に傍点],性善を標榜し、または性惡を主張する時は、その間ばかりは、孟子又は荀子の樣に、内容もない善惡の別塊である。善惡混合を云ふ時は、またその間ばかりは、善惡の混合物である。假りに僕に内外の區別があるとして、その内外からやつて來る必然の前には、君子もあらう筈はない、小人もあらう筈はない。 存在は盲目で、道徳的に云へば、無目的である[#「存在は盲目で、道徳的に云へば、無目的である」に白三角傍点]。大底の哲學者と同樣、シヨーペンハウエルも亦宇宙に意匠の統一があると云つたが,哲學者の所謂統一とは、僕に於ては表象の轉換する工合をいふので、物と物との符合して居るやうに見えるのは、はじめから割り符を與へられて居るのではない[#「哲學者の所謂統一とは」~「居るのではない」に傍点],その時だけそう見えたので、偶然の思ひ付きである。――尤も詩には之が非常な意味を以つて來る――たとへば、田鼠が地下に穴を堀ると、たゞ一直線に堀つて行くのでなく、追はれた時の用意に、左右にところ/″\隱れ塲を拵へて置く。また、雲雀が空から下りる時、眞直ぐに地下の巣には行かないで、それから少し隔つたところへ落ちる。兩者の賢いのは、よく似て居るやうであるが、これが果して神の與へた割り符であらうか。北國と南海との片田舍で、同じ姓名の人が出來る、これが果して本能の統一的作用の然らしめたのであらうか。猿の手の親指は外へ向いて居る、人間のは内へ向いて居る、これが造化に意匠のあるところだと云へようか。そうだと答へるものは、狹い範圍の智識で安眠を貪らうとするのである。渠等に深遠な神秘を説いたところで、到底之を味へるものではない。無目的な事物を善といふ方便に使つて、それで滿足して居るに過ぎない[#「無目的な事物」~「居るに過ぎない」に白丸傍点]。スヰデンボルグの熱烈な科學的研究が、つひに頑迷な宗教家を生み出すに至つたのは、從來の習慣的宗教並に哲學の到底度すべからざるを證明して居るのである。 莊子の『齊物論』には、『言いまだ始めより常なるにあらず』と云つてあつて、常なるものがあれば、常ならざるものが豫想出來るし、物に始めがあれば、その始めあるの始めがなければならない譯である。無限なるものに目的のあらう筈はない[#「無限なるものに目的のあらう筈はない」に白三角傍点]、况んや向上とか墮落とかいふのは、却つて造化を揣摩《しま》[#入力者注(5)]し過ぎた話である。老莊の徒でさへ、尚《なほ》道なる物を絶對として、物外に存ぜしめたが、絶對とは終極又は原始の意で、それが到達又は規定せらるべきものであるなら、もう世界は滅亡したと同じで、そんな死物同前なものに住する必要がなくならう[#「絶對とは」~「必要がなくならう」に傍点]。元良博士、曾てどこかの演説又は雜誌で、『道』といふ物を解釋して、道とはたゞ人の歩む跡の如しと云はれたと、僕は記憶して居るが、間違ひがなければ、これは道學的習慣を離れた卓見と云はなければならない。――僕等はエメルソンなどの所謂物質と理法と心靈なるものを循環して、――實は同じ物であるから――行けども/\目的地を發見することが出來ないのである。

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