墮落した萬有神教

 かう云へば、墮落した萬有神教だと攻撃するものもあらうが、別に崇拜する念を起さなければ、何も耶蘇教でいふ神と競爭するわけもないし,且、萬有神教の絶頂に登つて居るスピノーザの樣に、心と物とは一つの本體の二方面だといふ見解をも取らないから、個々別々な物の外に無限に重大な御神體があるとも思はない。存在して居るのは、たゞ時々刻々變形して居るものばかり[#「存在して居るのは、たゞ時々刻々變形して居るものばかり」に傍点]で――僕等が天を仰いで、燦爛たる星辰を見ると、何だか久遠の救ひを感じ得た樣な氣がするのは、僕等に詩的想像力があるからで――その實、星辰どころでない、天と地とは僕等の心と共に變轉流動して居るのであるから、僕等が廣いと思ふ宇宙には、安んずるところもないし、また安んずる本體もないのである[#「天と地とは」~「本體もないのである」に白丸傍点]。それで、僕の云ふ自然即心靈の論理的形式中に、殘つて居るものとては表象の轉換[#「表象の轉換」に白三角傍点]ばかりであるのだ。 これは、スヰデンボルグが現象はすべて心靈の表象であると云つたり、シヨーペンハウエルが同じ現象を意志の權化であると云つたりするのとは違つて、僕の所謂表象――英語のシムボル(Symbol)――とは、一つの表象がまた他の表象であるとの意で――詩的に時空的存在を見とめられて居る宇宙は、その目的と極致とがあらうとも思はれないから、表象の奧に何かの教訓を含んでも居なければ、また一如的到達點のあるのでもない。たとへば、立ち木は佇立して居る人間で、倒れて居る人は天人の眠つて居るので、天人が羽衣をかゝげて飛んで行くのは天その物の運行で、天の目が覺めて居るのは草木の芽に萠えて出るといふ樣なわけで,表象が表象を案内して、丁度盲人が盲人を手引く樣に、時空といふ假空的暗處をめぐり廻つて居るのである[#「表象が表象を案内して」~「居るのである」に傍点]。僕の説から云ふと、それ以上の事を附會するものは、虚僞と僞善とを宣言するわけになるので、この事は尚あとから出て來る。

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