わが東洋の方に向いて見ると

 然し、あまり西洋のことばかりを云はないで、わが東洋の方に向いて見ると、シヨーペンハウエルの云つたやうな事實は、第一、神秘的な易哲學[#「易哲學」に白三角傍点]にもあつて、陰陽といふ抽象的法則となつて居るのである。スヰデンボルグの脊骨の話の樣に、この法則が宇宙の萬物に一貫して居るので,たとへば、君と臣と相對する時はそれが陰陽であるが、その孰れかゞ男性として女性に對すると、またそれが陰と陽とである。男女を人類として禽獸に對すると、またそれが陰陽である。人獸を一括して天に對すると、また陰陽の形が出來,天と地とを相對せしむると、また同じ形が出來る。一物を分析しても陰陽はあるし、具體的物象を見てもまたこの關係がある。推移、進動、行爲などに於ても、この法則は流行して居るのである。ピタゴラスの哲學が數を以つて宇宙の萬有を説明しようとした通り、易にもこの數の觀念がつき纒つて居るので、僕から見れば、この數は乃ち僕等の免るべからざる運命の樣なものと見て善い[#「僕から見れば」~「見て善い」に白丸傍点]。 この運命の上に隱現する萬有はどう云ふ風に解釋が出來るか――莊子は『道いまだ始めより對あるにあらず』云々と云つて、甲と云へば必ずその甲に非ざるものを豫想して居るので、エメルソンが自然を論ずるのに、我と非我とを別けた方便の樣なものである。邵子《せうし》[#入力者注(5)][#入力者注(12)]に至つて、面白い言を云つた、『自然の外、別に天なし。』――邵子は易を祖述して、一派の哲理を考へ出した人で、人物もなか/\面白い,天津橋上で杜鵑《ほととぎす》[#入力者注(5)]の聲を聽いて、王安石新法の事變を豫言したことがある。今、假りに邵子の言を以つて問題を起し、僕の考へを解釋して行かう。『自然の外、別に天なし』とは、自然が乃ち天だといふのか、天が自然のうちにあるといふのか――換言せば、物質ばかりだといふのか、心靈のみあるといふのか、或は又物質と心靈とが同一だといふのか。エメルソンは、邵子の説と同じで、唯心論を取つたが、その實、運命なるものを脊にして、この三問題を輪廻して居たのである[#「エメルソンは」~「居たのである」に傍点]。

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