『婦人論』

 次に、メーテルリンクはどうかと云ふに、その『婦人論』[#「その『婦人論』」に白三角傍点]を見れば分る。心靈は、何萬年も先きから、愛せらるゝのを待つて居る[#「心靈は」~「待つて居る」に白丸傍点]ので、愛の油さへそゝげば、その靈は無言の暗處から跳び出て來るのである[#「ので、愛の油」~「來るのである」に傍点]。油を注ぐものも、注がるゝものも、はじめから豫定されて居るのだ。それは、必らずどこかで一度相見たことがある靈と靈とであるからである。たとへば、深みの奧に隱れて居る遠島から、手紙が來たとする――それが實際生きて居る人だか、居ない人だか分らないながら、その來た手紙の書き手を、まんざら自分の知らない人だとは斷念の出來ないものである。これは自分の知らないうちに、一種の神秘的交通[#「神秘的交通」に白三角傍点]があつたに相違ないからだ。それが段々近づくことになつて、見もし、笑ひもし、接吻もすることになると、その最初の接吻が、一緒に住んで居る愛人の胸中に、いつも最も云ひ難い、最も愉快な記憶を浮べたり、また沈めたりする[#「その最初の接吻が」~「また沈めたりする」に傍点]――この刹那が最も興味の盛んな時である。婦人は男子よりも運命に司配されることが多い[#「婦人は男子よりも運命に司配されることが多い」に白丸傍点],然し、素直で、眞率であるので、男子の境遇よりも婦人の方が神に近づいて居る[#「然し」~「近づいて居る」に傍点]。今、女を抱いて居るとして、その女の忠實か不忠實か、浮氣か眞面目か、天女か鬼女かを問ふ必要はない――よしんば、下等な淫賣婦であつたにしろ、一たび『一つの心靈が一つの心靈を接吻する[#「一つの心靈が一つの心靈を接吻する」に白丸傍点]』と思ひ得られる時なら、その刹那は不思議であつて、驚嘆すべきものである。――久遠の愛を掴んで居る時――最も原始的本能を以つて、靈的交通をして居る時。 婦人には一種の靈光があつて、男子は知の世界に下つて之を忘れて居るが、再び之に接合しようとすると、神秘の門をくゞらなければならない[#「婦人には」~「くゞらなければならない」に傍点],婦人は卑怯であるから、一歩も之を出て來ることが出來ないのである。男子が知の形式を破つて、その門を敲けば、婦人は直ぐ、自分に送られた靈だと知つて、開けて呉れるのである。婦人を惡口する男子は、それに接吻するに最も善い高地を知らないのだ[#「婦人を惡口する男子は、それに接吻するに最も善い高地を知らないのだ」に傍点]。婦人は、父を恐れない小兒と同樣、神の前では無邪氣に笑つて居る。渠等の不斷の樣子を見れば、縫ひ物や編み物をしたり、髮を解いたり、結つたりして居るので、それに智識上の事を話しても分らない。婦人を見舞ひに行くのは、美しい花を見に行くのと同じである[#「婦人を見舞ひに行くのは、美しい花を見に行くのと同じである」に白丸傍点]。然し、愛には理解は入らない[#「然し、愛には理解は入らない」に傍点]、婦人は無意識で、運命のあてがふ結婚を待つて居るのだ[#「婦人は無意識で、運命のあてがふ結婚を待つて居るのだ」に白三角傍点]。最も善く神秘の面影を今日まで傳へて居るのは、婦人の外にないといふ論である。

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