寛衣を着た學者ではない

 要するに、スヰデンボルグは、プラトーンの樣に寛衣を着た學者ではない[#「要するに」~「學者ではない」に傍点]、赤裸々の實際家であつただけに、神秘家として見れば大變威嚴のあつた人である[#「赤裸々の」~「人である」に白丸傍点]。――先生と呼んで近寄ることは出來ないが、遠くから之を望んで崇敬すべき勢ひがある。それで、その輪廻説[#「その輪廻説」に白三角傍点]でも、昔は希臘の神話にも見え、プラトーンの想起説にも附隨して居るが、すべて客觀的であつたのが――尤も佛教では、消極的ながらも主觀的になつて居る――スヰデンボルグに至つて、意志に依つて如何ともなる積極的の主觀的となつた。人があつて、千年目にその靴を食ひ、その祖母と結婚したとすると、必らずまた千年目には、靴を食ひ、祖母と結婚するものがあるに違ひない[#「人があつて」~「あるに違ひない」に傍点]――否、人は各自の家と國とを造るのである。渠の考で云へば、犬の樣な所業をする人は既に犬と化して居るので、幽靈の樣な瞹眛な言葉を吐くものは既に幽靈となつて居るのだ。從つて、神を學ぶものは既に神である筈だが、これはユニテリヤンから出たエメルソンにはまだ許されようが、スヰデンボルグには古來の耶蘇教的形式があるので、そこまでは云へなかつたのだらう。然し、メーテルリンクが云つた樣に、『僕等はかうして、一度ならず、二度ならず、生れられる,而して、生れ更る毎に段々と少しは神に近づくのである』とは、スヰデンボルグも同じ意見であるだらう。 兎に角神秘なるものを科學的に説明しようとするのは、再びスヰデンボルグの徹を踏むに過ぎない[#「兎に角神秘なるものを」~「踏むに過ぎない」に白三角傍点]。近頃姉崎博士が頻りに之に科學的根據を與へようとつとめられる樣だが、その解釋が出來る位なら、神秘は神秘でなくなつてしまう。スヰデンボルグは、最初に神秘的本能を科學によつて滿足させようとしたが、それにはおのづから限界があつて失敗した。それで、哲學の方面ではどうかと云ふに、エメルソンの論と同樣、系統が立たない。その熱心の極度は全く宗教的となつたが、折角自由自在な表象の範圍を、ベーメと同樣、無殘にも、教會といふ形式の用具にしてしまつたのである[#「その熱心の極度は」~「用具にしてしまつたのである」に傍点]。人物から云へば、その首を銀河に洗ひ、その足は固く地獄の床を踏んで居た大人物だが、惜しいかな、在來の宗教が仇となつて、古木の朽ちた樣に倒れてしまつたのである[#「人物から云へば」~「倒れてしまつたのである」に白丸傍点]。

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