烈しくなつて來た悲觀の反動

 然し、渠は初めからそう云ふわけではなかつた[#「然し、渠は初めからそう云ふわけではなかつた」に傍点]。その實際の經驗から、烈しくなつて來た悲觀の反動が、一方の極端まで樂觀に進んだのである[#「その實際の經驗から」~「進んだのである」に白丸傍点]。一たび世間の眞相に觸れたことのある人々には、必ず僕の云つて居ることが實際であるのだ。メーテルリンクも『星』といふ文中に云つてある通り、『世紀毎に別な悲愁を抱きしめるのは、世紀毎に別な運命を曉るからである。』僕等が最も深い悲愁に沈んで居る時ぐらゐ、自我の發揮して居ることはない[#「僕等が最も深い悲愁に」~「居ることはない」に傍点]。抱月氏の所謂『赤い火』に對して、『青い火』が最も盛んに燃えて居る時である。僕等が悲愁の偉大になるに從つて、自覺の力が振つて來て、僕等の自我が擴張する。これ、我を物外に解放する時であつて、心靈その物の生命がこの時急流となる。エメルソンに據つて云つて見れば、『人生の最も善い刹那は、高等の心力が愉快に目覺めて來る時で、この時には、自然は尊敬を以つて神前を引き退いてしまう。』かう云ふ刹那を觀ずると、悲愁のうちにも快感を覺えるのである[#「かう云ふ刹那を」~「覺えるのである」に傍点]。この快感の方面から、若し樂觀が出來るとすれば、それは悲的樂觀[#「悲的樂觀」に白三角傍点]とでも稱すべきものであらう。僕の考へでは、有限の人間には、悲愁は運命の樣に心底に横たはつて居るので、その上を樂觀するのは、或形式を以つて來て蓋をしたと同前[#「僕の考へでは」~「蓋をしたと同前」に白丸傍点]で――エメルソンの樣な人は意志が強くて、自分の肺病を自分で直した位であるから、たゞ無理にでも、外形ばかりは、純粹の樂天觀を以つて押し通したのであらう。 エメルソンが煩悶をした跡は、どの論文を見ても分る[#「エメルソンが煩悶をした跡は、どの論文を見ても分る」に白三角傍点]――特に『代表的人物』で分る。プラトーンがその當時の東洋の冥想と西洋の實際的思想とを結合して、かの幽妙な獨創説――世界はイデヤ(ι´δεα)の權化であつて、之を想ひ起すに從つて、われ等は實體に歸して行くのであるといふ説――を建てたのに感服したが、如何にもその獨斷であつて、その學説の不完全、非自證的な點が分るに至つて、モンテーンの樣な懷疑家に走つた。 人間は、分らなくなると、萬事が不可解となる、否、解かうとすることがもう疑はしくなるものである。萬事を疑ふなら、いツそモンテーンの樣に、思ひ切つて疑ふが善い[#「萬事を疑ふなら」~「疑ふが善い」に傍点]。――渠は最も正直な作者であると、エメルソンは云つてある。然し、同情がなくては人生の神秘は分りツこがない、手中の一世界は叢中の二世界よりも價値がある。前に引用してある通り、どうせ、地獄の下にはまた地獄がある,どんな學説でも、また倒れる時があるに定つて居るが、すべては久遠圓滿の大原因中に含まれて居るのだ――『たとへわが舟は沈んでも、それはまた別な海へ行くのである[#「たとへわが舟は沈んでも、それはまた別な海へ行くのである」に傍点]。』と悟つてから、またシエキスピヤやゲーテの樣な文藝的慰籍者に走つた。

— posted by id at 12:35 pm  

T: Y: ALL: Online:
Created in 0.2162 sec.

http://liquiddesign.biz/