『新しい人間』

『新しい人間』を求めようとする気持は今もひきつづいているのですが、それにしても、今ではその気持が少し複雑になっています。何といっても、敗戦直後は人間の悲惨さえ珍しく、それにはそれにつづく漠たる期待もありました。三年を経た今日では人間の生存し得るぎりぎりの限界にまで私は(生活力のない私は)追いつめられています。この手紙を書きながらも、ふと空襲警報下にあるような錯覚と気の滅入りを感じるのもそのためなのでしょう。 それにしても『日本沙漠』とは近頃、誰が云いだした言葉なのでしょう。花田清輝も、沙漠について、砂について、蟻地獄について、さまざまの考察をしているようですが、どうかするとこの頃は人間の魂まで砂のなかに埋没されそうになるのです。 昨年火蓋を切られた『新日本文学』対『近代文学』の論争も、その後焦点が紛糾しすぎてちょっと分りにくくなった節もありますが、結局は人間と現実に対する測定の立場の相違かもしれません。この二十年間の社会と文学のうごきを知るものにはあのような論争が避け得なかったこともほぼ推定されます。それに、あなたたちが人間の権威を内に築こうとしていることは何といっても素晴しいことです。しかし『政治と文学』の問題は私にとってあんまり問題が大きすぎます。作品や作家の印象について語りましょう。 人間に対する期待は容易に満たされないことが分りかけましたが、かねて前から待望していた新しい小説の出現には近頃かなりたんのうしました。どうかすると今でもまだ小説の不振とか新人の欠乏など云ってみたがる人もあるようですが、私は決してそうとは思いません。少くとも戦時中の惨たる凍死状態に比らべれば、今はどれだけ立派な人々が有望な仕事にとりかかっているかわかりません。梅崎春生、野間宏、椎名麟三、そういう新しい名が雑誌に現れるたびに、私は貪るように読んでみました。それぞれこれらの人たちはすぐれた技術と新しい意図を持っていて、充分興味をそそるようです。なかでも野間宏の『魂の煤煙』は今後どれだけ発展するか非常に期待されます。『顔の中の赤い月』については大概の人の意見が一致していたようですが、この人こそは恐らくほんとうに大成する作家でしょう。『魂の煤煙』(1)を読んだとき私は思ったのですが、人間の顔やちょっとした身振のなかにその人を生み育てた環境や歴史を探ろうとする描写法は、小説として何も目新しいものではないとしてもこの作者の観相術にはなにか豊かで独自な魅力があるようでした。中村真一郎の『死の影の下に』も魅力ある小説でした。この人とは逢って話をしてみてよく分りましたが、非常に頭脳の回転の速い人で、鋭利で過剰な神経の持主のようです。それに詩人や批評家としての天稟を恵まれている珍しい人です。 頭脳の回転速度といえば、やはり石川淳の『明月珠』『焼跡のイエス』などを思い浮かべます。あのピンと緊張した極から極へまっしぐらに読者を追いつめてゆく手は、何というスタイルの魔力なのでしょう。この人はもう身から出た錆を身につけた独自の風格さえあって、なかなかちょっとかなわないようです。伊藤整の鳴海仙吉ものも時々、私をハッとさせます。これは自意識の処理、小説叙法の装置――などと云うと変てこですが――について新分野を拓いてゆくものではないでしょうか。 丹羽文雄の『蕩児』や船山馨の『現在』を読むと、デフォルメされた世相が一応巧みにひびいて来ます。ことに船山馨の場合、烈しい自虐の調子が人を惹きつけるのですが、それでいて、読後の物足りなさ、うそ寒さは一体どういう訳なのでしょう。

— posted by id at 11:46 am  

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